ご挨拶

不用品回収カツミ―の平松克己と言います。僕は昭和32年、東京の高田馬場で生まれました。
還暦目前の58になります。あだ名はカツミーです。
(笑)ちょっと昔話をさせてください。カツミーの両親は神田川沿いで下宿屋も営んでいました。
早稲田大学が周辺に多く住んでいたので当時、この辺りには下宿屋だらけでした。
その頃の神田川は生活排水が濾過されず直接、入って来ていたので川の水がとても汚かったのを覚えています。
うちの下宿は1階が3畳一間の部屋がふたつ、2階は6畳一間が一部屋だったのですが、その6畳の部屋には診察台を持ち込んで歯医者さんが営業していました。下宿屋の2階で歯医者が営業できるなんて・・・今ではとても許可が下りないと思います。
近くに銭湯もありましたし、南こうせつの名曲『神田川』は僕の家をモデルにしたのではないと感じでしまうぐらい名曲『神田川』の世界観そのものでした。
でも、残念ながらそんなことはなく(笑)当時、高田馬場には何万人もいる早稲田大学の学生のために下宿屋が星の数ほど沢山あったのです。
しかし、今は区画整理で昔の面影はありませんが、映画『神田川』にはほんの一瞬ですが僕の実家が写っています。僕らは近所の仲間たちと小学校から帰るとランドセルを玄関先に放り投げてメンコやかくれんぼで日が暮れてお互いの顔が夜の闇に溶けてよく見えなくなるまで遊んでいました。隣の人の家に子犬が産まれたのでそれを貰って飼うようになったのは小学3年生の頃だったと思います。
今ではあまり見かけませんがスピッツ犬で良く鳴いて、良く噛む、犬でした。名前はコロ。近所の甘泉園公園によく散歩に連れていきました。僕が走るとコロも追いかけてきて僕の足を噛む。日常茶飯事でした。
なんの自慢かわかりませんが、飼い犬に噛まれた数では僕はそう簡単には人には負けないつもりです。(笑)
基本的にはどこの子供も普通にするような遊びをしていましたが、今考えると、時代と高田馬場という地域がマッチしたことで成立したとても特殊な遊びもしていました。
その当時、早稲田大学は学生運動で荒れまくっていました。デモの日は小学校は午前中で終わります。
僕の家から早稲田大学に向かう商店街はまだ、昼なのにシャッターを閉めています。昼前には学校が終わっていますが僕たちはデモだからと言って家で大人しくはしていません。
僕たちはみんなでとデモ観戦に向かいます。昼なのにシャッターの閉まっている商店街を駆け抜けて。
大学に到着するまでには催涙弾のせいで目から涙がボロボロと落ちてきます。
時計台の下で学生達と機動隊がお互いに罵声を浴びせながら衝突するのを興奮しながら見ていました。
学生運動は僕ら小学生にとっては心躍らせる遊び以外の何物でもありませんでした。
デモの無い日は大学の校庭でデモの練習をしている学生達にまじって『安保反対!』と意味もわからず叫んでいたものです(笑)
無邪気な学生時代を経て高校卒業後、初めて就職したのは両国橋の袂にある自動車の修理工場でした。
初任給が6万円だったのを覚えています。夜8時くらいまで働いて帰ってきて風呂入って寝るだけの毎日がつづき遊盛りの僕は1年半くらいで辞めてしまいました。
その後、パチンコ屋やポーカーゲーム屋、友人の工場(ウォークマンの部品を作ってました)など職を転々として20代後半で秋葉原の電気店の販売員になりました。
そして、地元の女の子と結婚をしてマンションも買い生活がようやく安定したかと思われました。
しかし、マンション購入から数年後、電気店の経営が秋原場に進出してきた量販店に押されて傾いてきました。
給料の遅配そればかりか減給。電気店の同僚も一人また一人と辞めていきました。
電気店は売上げ確保のためになりふり構わず商品の構成を変え最後はフィギアまで並べるようになりました。
我慢して勤めていたのですが、最後はとうとうクビを切られてしまいました・・・・。
クビを切られたことを妻に告げるときの情けない気持ちは今でも忘れません。
当面の貯金はありましたし、シーズ犬が僕らの子供の替わりではありましたが、幸か不幸か子供はいませんでした。妻は小さいながらも雑貨店を経営して僕より稼いでいたのですぐに生活に困ることはありませんでしたが、再就職先を探す毎日が始まりました。
職探しをするなかで本当は困難な時こそ前向きに頑張らねばいけないのでしょうが、僕は逆に腐っていきました。
そして、だんだん妻とギクシャクしてきて、ケンカが増え、とうとう、離婚することになりました。貯金とマンションは妻名義にして、電気店で積み立てていた年金基金の200万円だけをもってマンションを出ました。
職もないのに、アパートを借りると出費がかさむからという理由でとにかく、寮付きの職場を探そうと思い、新聞販売所やパチンコ店の面接に行きましたが、年齢が40を超えていると再就職は予想以上に厳しいものとなっていました。
そして、ふと気がついたら信じられないかもしれませんが、ホームレスになっていました。
日中は錦糸公園で過ごし、夜は雑居ビルに潜り込んで眠る。そして、寮付きの仕事の求人があれば面接に行く。
そんな生活を半年以上続けました。話しこそしないものの錦糸公園には僕と同じ境遇らしき人も数名いました。
僕自身、面接にさえ受かれば、寮に入れれば、そうしたら今の状況から抜け出せる。
でも、面接に行っても落ちてしまうそんな毎日でした。だから、僕自身は一時的に住む所がないだけでホームレスである感覚はほとんどなかったというか僕自身、ホームレスだと思いたくなかっただけかもしれませんが、今考えると正真正銘、紛れもないホームレスでした。(笑)
もし、この時点で就職を諦めていたら朝から酒浸りの生活になってしまったかもしれません。
僕は普段、お酒を飲みますが、ホームレスの時は逆にお酒は飲みませんでした。
お酒を飲む余裕があるなら、食費にあてていました。地元の先輩にお金を借りに行くのに錦糸町から歩いて早稲田まで行ったこともあります。
先輩は何も言わず、何も聞かずに1万円貸してくれました。その時の嬉しさありがたさは忘れません。
そんな時に、求人誌で廃品回収のドライバー募集をみて応募。晴れて合格しました。
完全歩合の仕事なのできっと合格しやすかったのだと思います。ボロボロの軽トラックに拡声器をつけて町を巡回する。
完全歩合で毎日、日銭が入ってくる。
『毎日、飯が食える。』言葉にするとシンプルですがそれが当時、本当に嬉しかったです。
ただ、寮はないので軽トラックで寝泊まりしました。(寮がないから合格出来たのかもしれませんが・・)
しかし、夜中、ビルで寝ないですむだけでも僕にとっては嬉しいものでした。
軽トラックで2年ほど寝泊まりして、廃品回収業者としての仕事も覚え、現金で中古の軽トラを買い、廃品回収業者として独立しアパートを借りました。
この時の気持ちもシンプルですが『嬉しかった。』独立して人並みとは言えませんが、とりあえず3食食べられるようになった頃、元妻に電話をしました。
『色々あったけど生きてるよ』と生存報告をしました(笑)。その後は年に2から3回ですが元妻とも連絡を取り合う関係になりました。
元妻の旅行中は元妻の飼い犬(以前結婚していた頃のシーズ犬ではありませんが)の面倒をみることもあるます。
もう、58歳なので大袈裟な夢をみることはできませんが、飼い犬に噛まれ続けたにも関わらず(笑)犬が好きなので、今のアパートを出て(今のアパートはペット禁止なのです)、もう少し広くてペットの飼える家を借りたいなと思っています。
今度はもう、噛まれたくないからスピッツじゃなくて柴犬がいいかな?
家は台所の他に部屋が二つあって元妻も泊りにこようと思えば泊りにこれるような。
そんな淡い希望を持ちながら毎日、自分のペースで仕事をしています。
他業者に比較して、特別価格が安いわけでもありません。
もう、還暦まじかなので、荷物を運び出し積み込みはお客様にお手伝いして頂いております。
ただ、出張エリアが足立区、葛飾区、草加市、江戸川区だけなので即対応が可能です。
また、一部の不用品回収業者が高額請求をして社会問題になっておりますが、もちろん、不用品回収カツミ―では不当請求は絶対にしません。
別に誰に自慢できるものでもありませんが真っ正直に生きてきました。
そうじゃなきゃ、誰が自分自身が過去にホームレスになったことを告白したりするものでしょうか?(笑)
日々、何事にも正直に対応しながら、あとはケセラセラの心構えで残りの人生を歩んでいきたいと思っています。